極限状態に陥ったとき、人の生死を分けるのはその人の保有する知識量だと思う。そしてその「知識」ということには、従来この言葉が一般的に定義しているものよりはるかに多くのことが含まれる。そして逆に、一般的定義における知識は、多くの場合役には立たない。(この文脈では知識という言葉は、情報と置き換えてもいいかもしれない)
基本的にその考え方の出発点は「私はある事柄を知らないかもしれない」ということを「知る」ことにあるだろう。例えば私達は自分達の体につ
いてどれだけの正しい認識を持っているだろうか?例え体を職業として扱うアスリート、トレーナー、医師などであっても、その比率は完璧な理解に比較すれば極めて低いレベルにあるのではないか。そしてそれは沢山勉強をすれば補えるものだけに限られているわけではない。もちろん、アスリートが、例えば体幹の重要性とその運用法について正しい知識を得ることができれば、彼のパフォーマンスは飛躍的に上昇するかもしれない。しかし、もし現在科学的に解明されていない体幹と神経系の関連などが我々の体には隠れているとしたら、彼はそれを感覚として経験することはできるかもしれないが、決して読書などによってそれを明文化して得ることはできないはずだ。つまり、現在分かっている事実はもちろん受け入れ、それをうまく活用していくことは大切だけれど、それと同時に私達の体についてはまだ全く言語化しきれていない部分もあるという可能性を認識し続けることも同時に重要になってくると思う。そしてその許容量をどれだけ保つことができるか、それらの未知の知識に対して貪欲であり続けられるかが、自らの成長を助ける糧になっていくかもしれないと感じる。
そしてそれと同時に、氾濫している知識に対して自分なりの判断基準をしっかりと設定することも重要となる。何かを知らないまま過ごすことと、誤った事を知りそれを信じて過ごすことは、等価値に危険だからだ。教育をより多く受けた人々が大衆的メディアを嫌うのは、その意味で仕方ないのかもしれない。なぜなら、TVや雑誌といった、誰もが受信可能な知識や情報には、自分なりの検閲をかけられない分、信憑性が薄い可能性が高いからだ。逆に、自分の信頼する個人的なコネクションから得た知識は、その分信用に足るし、仮に間違っていたとしても、それはこちら側の判断の甘さとしてある程度諦めがつく。しかし語り手の顔が見えない知識は、それが大規模であればあるほど、自分の下に届くまでに歪曲され、プロパガンダがかかっていると考えた方が妥当であろう。
さらに、表象的に数値化、記号化された知識というのも、危険度であるし価値が低い。例えば映画のCMで「全米No1」と謳っていた場合、この情報を作成するための操作がいかに容易であるかを思い浮かべて欲しい。このNo1が果たして興行収入を指すのか、観客動員数を指すのか、そしてどのくらいの期間を指すのかが明記されていなければ、まず間違いなく不都合な部分については隠蔽されている(実際はCMでは小さい文字で詳細も出るようだが、一瞬で私は判読できた試しがない)。さらに言えば、アメリカでヒットしたことがイコール作品の価値に対する正当な評価であるかという疑問も、このケースでは黙殺されてしまう。もっと極端に言えば、私がこの文章を商業的目的で書いていて、利益のために読者数を増やそうとすれば、その目的を達成するためにいくらでも操作が可能であるということだ。よってこれらの知識には常に防御壁を準備しておいたほうが安全であろう。つまり、ランキングや定義と言った簡略化されて公表される知識を、学校の勉強のように暗記できる能力は逆に自らを偽りの知識の網に放り込むことになると考えるべきだ。ただし、これらの知識を必要なときに必要な分だけ取り出すことのできるツール(例えば信頼のおけるサーチエンジンや知り合い)をどれだけ多く持っているかも、これはこれで一つの知識としてある程度有用であるといえる。
最後に、個人的なことだが、私はなぜか「自分が何かを分からないということを分かる」感覚とそれに伴う危機感をずっと持ち続けてきたし、さらに言えば、冒涜かもしれないがそれらの「分からないこと」をいつか少しでも言語化したいという欲求が最近非常に強まってきている。そしてそれが私がこうして書き続ける動機になっているのかもしれない。